牛首紬の歴史

平治の乱(1159年)に敗れた源氏の一族、大畠某が桑島の地にのがれてきて、集落の東方「尾の上」と称するところに城をかまえて居住していた。その妻女が機織りの業に長じており、集落の婦女子に機織りを伝えたのが、起源とも伝えられている。牛首紬は天然絹糸をその原料としているため、養蚕の盛衰は必然的に牛首紬の生産に影響を及ぼすことはいなめない。古くからこの地では養蚕が盛んに行われていたらしく、衣服の自給自足により繭を原料とした紬などの衣料の生産が祖先の手によって工夫されていたらしい。
牛首紬の起源は、つまびらかでないが1793年(江戸時代寛政年間)都市・農村における家内工業が著しく発達した事実から、この時代に大いに改善・工夫・進歩をみたものと思われる。大正から昭和の初めにかけて、桑島集落内に工場の形のもの3ヵ所、家内工業的に各家庭で生産していたものを合わせて織機台数80~100台を数え、牛首紬の生産が盛んであった。加藤手織牛首つむぎもこの頃から牛首紬に関わっていたものとおもわれる
大東亜戦争中、生活必需物資統制令公布(1941年)による規制と、食糧増産のため桑園は畑に転用を余儀なくされた。養蚕の絶減によって牛首紬の原料となる原糸の製造は絶たれ、特産物である牛首紬の生産は不可能となってしまった。 しかし、当集落の加藤三治郎(加藤手織牛首つむぎ三代目当主)一家が、僅少の山桑による自家養蚕により原糸を生産、多年にわたり困難を克服して牛首紬の生産を継続し現在の復活をみた。三治郎の妻志ゅんはその労苦に対し、1978年黄綬褒章を授与された。