年代 | 出来事 |
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718年 (養老2年) | 泰澄大師が牛首村(白峰村字白峰)を開き、桑を植え、養蚕を伝授する。〔真成寺文書『白峰史』〕 |
1159年(平治元年) | 平治の乱に敗れた源氏の落人の妻が、嶋村(白峰村字桑島)の婦女に機織を教えると云。牛首紬の起源。〔『石川県能美郡誌』〕 |
1509年 (永正6年) | 桑嶋の地名の初見。この頃すでに白峰村で養蚕が普及か。〔山口家文書「方便法身尊像裏書写」〕 |
1544年(天文13年) | 加賀本宮長吏白光院、山科言継に嶋織物1反を送る。嶋村の織物の記述初見。〔『言継卿記』〕 |
1598年(慶長3年) | 白山麓の太閤検地。小物成として養蚕税とも言える夫綿・夫糸が課せられる。〔織田利太郎家文書『白峰村史』〕 |
1615年(慶長20年) | 白峰村の養蚕に関する最古の記録。桑島集落周辺の桑原の売買記録。〔新田民家文書『白山麓島村諸家文書目録』〕 |
1628年(寛永5年) | 加賀藩の絹禁令。寛永年間より武州清右衛門は北國の絹物を買い江戸に回漕す。〔『石川県蚕業沿革史』〕 |
1645年(正保2年) | 京都に入る諸国の物産として牛頚布、嶋布が記載される。〔『毛吹草』〕 |
1680年(延宝8年) | この頃嶋村で桑原・桑畑が頻繁に売買される。〔山口家文書〕 |
1688年(貞享5年) | この頃嶋村の出作りで春蚕・夏蚕の二度飼いが行われる。〔山口家文書「土地一作請証文」〕 |
1690年(元禄3年) | この頃嶋村で大規模な養蚕が行われる。〔山口家文書〕 |
1736年(元文元年) | 嶋村の糸、加賀絹の産地能美郡庄村に出荷。〔『石川県蚕業沿革史』〕 |
1740年(元文5年) | 嶋村191戸のうち141戸(74%)が養蚕を行う。〔山口家文書「申御年貢初納夏小物成秋夫銀夫糸綿」〕 |
1744年(延享元年) | 春蚕・夏蚕の2度飼いが白山麓で普及する。〔山岸家文書〕 |
1749年(寛延2年) | 『若狭国志』の布の項に「牛首優れる」の記載。 |
1751年(寛延4年) | 山口家、10人の奉公人と30人余の使用人で養蚕を行い、10人前後の糸引きを雇用して製糸を行う。〔山口家文書「西嶋日記」〕 |
1788年(天明8年) | 江戸の絹織物録に加賀紬・釘抜太織り紬の記載。〔『絹布重宝記』〕 一、結城紬 是紬中の最大一なり、他の紬は真綿を引きて織るなり、結城は不然糸を紬糸に製して織りたる物也、夫故万事似るものなし、(下略) 一、加賀全体太口なるものなり、至って強し 一、釘抜太織 帯地 加賀より出る、見てより高直なれども、地性至って剛なり。 |
1796年(寛政8年) | 嶋村門徒155戸が5ヶ年かけて東本願寺へ幕地284反2尋1尺を献上。〔山口家文書〕 |
1804年(文化13年) | 嶋村杉原家で雇用による糸引・のべ・苧引が行われる。〔杉原家文書「大福帳」〕 |
1818年(文化15年) | 杉原家、嶋村で紬を5戸から16反余、麻布を46戸から204反余、帯を2戸から8筋仕入れる。〔杉原家文書「大福帳」〕 |
1822年(文政5年) | 白峰の各所で、マニュファクチュア形態の製糸業が行わる。〔『三つ山巡り』〕 |
1823年(文政6年) | 牛首村の名産として牛首糸、山繭糸、台木布、苧屑頭巾が記載。〔『続白山紀行』〕 |
1837年(天保8年) | 牛首村生糸産額800貫。繭換算10,700貫。〔「白山麓における地名子制度の研究」織田家文書〕 |
1866年(慶応2年) | 白山麓の春蚕と夏蚕の収量比率59:41。〔山岸家文書〕 |
1869年(明治2年) | 織田利右衛門が座繰製糸を導入する。 |
1870年 (明治3年) | 織田利右衛門が座繰製糸を導入する。 牛首村有志が福井藩より無期限で2万5千円の融資を受け、従来の手挽きを 座繰り機械に改良し、長野県中野村(中野市)から5名の製糸教師を招き、 越中今石動(小矢部市今石動)近在から工女20人、越前粟田部(越前市今立町)より 工女25人牛首村から工女55人計100人を募り、 信州上田の製法で製糸を行い横浜に移出するも、翌年の廃藩置県により 元本の返済を迫られ事業はとん挫する。 (山岸家文書0162「能美郡白峰村来歴等上申」) |
1872年(明治5年) | 富岡製糸工場開業。 |
1873年(明治6年) | 嶋村206戸の内158戸(77%)が養蚕を行ない、1戸当り平均19円30銭の収入 (米1石4円-4石8斗2升5合)。 |
1874年(明治7年) | 嶋村206戸のうち158戸が養蚕を行う。〔山本清助家文書 「養蚕人名簿」〕 金沢製糸社設立 |
1875年(明治8年) | 嶋村の物産として、紬拾五疋、布五百疋、生糸85貫百匁、繭80貫、藍20貫が記載〔『白峰村史』玉井敬泉家書〕 |
1877年(明治10年) | 竹腰松右衛門が座繰りによる製糸業を開始する |
1878年 (明治11年) | 織田発(利右衛門)が足踏による単操車(一人取製糸機)による試験操業を開始。 金沢博物館に桑島より晒し布を出展。 |
1879年(明治12年) | 織田発が白峰製糸社を設立。単操車25台と手挽で操業を始め、製品は横浜へ出荷する。 設立当初から女工の賃金に「等級賃金制」を導入 |
1880年(明治13年) | 白峰製糸社、原料繭の不足から信州繭の購入はじめる |
1882年(明治15年) | 白峰製糸社廃業。 |
1884年(明治17年) | 織田市次郎が製糸業を始める。 |
1887年(明治20年) | 足踏式座繰り機が開発され、自営業、家内職による座繰り全盛時代となる。 |
1889年(明治22年) | 町村制施行。現在の白峰村が誕生する。 |
1890年(明治23年) | 織田市次郎が水車動力による座繰製糸場(白峰製糸場)を創設。 |
1891年(明治24年) | 加藤留屏・藤場利之吉ら小松から織機を導入し羽二重生産を試みるが、 精錬を委託していた小松の新田機業場に拒否され3年で中止の止むなきに至る。 しかし、織機を翌年から晒布・紬織りに転用し、 操業を続けたが明治29年の水害で廃業する。 〔『石川県能美郡史』p968〕〔『白峰村史上巻』p175〕 |
1892年(明治25年) | 白峰村の養蚕農家数576戸(全戸約700戸の8割以上)収繭19,800貫匁、収繭量最大。 |
1894年(明治26年) | 麻織物の生産量3,700反。 |
1894年(明治27年) | 加藤留屏・藤場利之吉ら晒布・紬織りを始める。桑島に高機が普及し始める。〔『石川県能美郡史』p968〕 |
1895年 (明治28年) | 白峰村の機業戸数500戸。織物生産量、紬200反。麻布5,295反。 |
1900年(明治33年) | 織田清八が小規模な機械製糸場(清八工場)を創業。白峰村の機業戸数520戸。紬の生産量450反。 |
1902年(明治35年) | 水上鶴吉が水車動力による座繰製糸工場(鶴吉工場)を創業。この頃、糸を自家染色して縞紬を製織するもの現れる。〔『石川県能美郡誌』〕 |
1905年(明治38年) | 紬生産戸数50戸。麻織物生産戸数342戸。 |
1909年(明治42年) | 水上鶴吉、機数32、出機7~8台で紬製造業を始める |
1910年(明治43年) | 紙谷三五郎が座繰製糸場(嘉助工場)を創業。この頃以降、繭不足が顕著になる。白峰村の機業戸数370戸。紬の生産量672反。 |
1912年(大正元年) | 藤場利之吉が座繰製糸場(桑島製糸場)を創業。 |
1914年(大正3年) | 麻織物の生産量が2,000反を割り込む |
1915年(大正4年) | 紬の生産量350反 |
1917年(大正6年) | 紬の生産戸数50戸。生産量360反。 |
1918年(大正7年) | 勝山市の嘉久越の資本参加による嘉久越合名会社を桑島に設立。昭和初年に経営不振で廃業。 |
1919年(大正8年) | 紬が麻布の生産量を越え1,859反になる。藤場利之助が製糸業より紬製造業に転業。 |
1920年(大正9年) | 水上鶴吉・藤場利之吉・山下藤間が機業場開設。紬の生産量3,548反。〔「石川県能美郡統計書」〕 |
1921年(大正10年) | 根倉岩橘が機業場開設 |
1923年(大正12年) | 水上鶴吉が合資会社水上機業場を設立し、本格的に牛首紬の製造販売を開始。山下八治・織田市次郎が機業場を開設。〔『石川県能美郡誌』〕 |
1926年(昭和元年) | 嘉久越合名会社が経営不振で廃業。金沢に待寺織物工場創立(力織機生産の台頭) |
1940年(昭和15年) | 柳宗悦『手仕事の日本』に白山紬が登載。戦時下で贅沢品の製造と販売が禁止され、紬の製造業者が多数廃業する。水上機業場、紬年産2,600反。 |
1941年(昭和16年) | 白峰村織物協同組合が設立される |
1942年(昭和17年) | 戦時統制で、石川県真綿製造販売業組合の工場が白峰に設立される。その影響で白峰製糸場と織田清八の工場が廃業。 |
1945年(昭和20年) | 農林省蚕系局より全国で50の座繰り製糸釜が認められ、その内の15釜が白峰村に許可される |
1946年(昭和21年) | 水上栄一らにより牛首紬復興の努力がなされる |
1948年(昭和23年) | 藤場吉之助家、製糸・紬織業を廃業する |
1950年(昭和25年) | 戦後の混乱で需要が伸びず、水上機業場は経営不振のため金沢に移転。白峰村に紬製造工場が無くなる |
1951年(昭和26年) | 水上機業場の従業員らが、家内職による紬製造を始める |
1955年 (昭和30年) | 紬織を続ける者が加藤三治郎だけとなる |
1969年(昭和44年) | 白峰村字桑島の水木平地区で、桑島農協が養蚕事業に着手する。 西山産業が「白山工房」を建設、紬の製造を始める。〔矢ヶ崎孝雄「白山麓白峰村における明治大正期製糸業の変貌」〕。 |
1974年(昭和49年) | 手取川総合開発事業(手取川ダム工事)着工、水没地域桑島地区の立退きが始まる。 離村者170戸。伝統的工芸品産業の振興に関する法律(伝産法)公布。 |
1976年(昭和51年) | 牛首紬の伝統技術者、加藤志ゆん黄綬褒賞を授与 |
1977年(昭和52年) | 加藤機業場が手取川ダムによる水没の為、白峰村桑島代替地に移転、操業を開始する |
1978年(昭和53年) | 牛首紬技術保存会設立。商品名を牛首紬に統一 |
1979年(昭和54年) | 牛首紬が石川県指定無形文化財に指定される。 牛首紬技術保存会が設立し、牛首紬の品質向上のため共同検査を開始する。 白山ろく民俗資料館開館。 |
1988年(昭和63年) | 牛首紬が通商産業大臣指定伝統的工芸品に指定される |
1990年(平成2年) | 伝統工芸士5名が認定され、初の工芸士が誕生する。 水上栄一氏が伝統的工芸品産業功労賞を受賞する。 |
2000年 (平成12年) | 加藤改石 日本きもの文化賞受賞(一財法 民族衣装文化普及協会) |
2014年 (平成26年) | 加藤改石 蚕糸功労賞受賞(一財法 大日本蚕糸会) |